あの日、2011年3月11日14時46分太平洋沖を震源とする震度7弱マグニチュード9.0の巨大地震が発生し、それに伴う大津波が東北地方太平洋沿岸部を総舐めした。あの津波を期に東北に住む我々の生活は一変しました。巨大な津波は家々を押し流し、産業を破壊し、親しい友人、愛する家族を奪っていった。あの地獄のような日からもうすぐ6年が経とうとしている今日、震災の復旧・復興は福島第一原発事故での著しく汚染された一部の地域を除き急速に進んでいるものと思われます。
当時、私はある会社の契約社員として運転手業務に従事しており宮城県岩沼市の阿武隈川堤防上にいて待機中で震度7は運転席でハンドルに掴まりまるで乗馬のロデオでもしているような激しい揺れで地面は波うち電柱の倒れるのを目の当たりにしました。
直後、会社から安否確認と帰社の指示が有り帰路に着いたわけですが、切断した電線、崩れ落ちた屋根瓦、亀裂が生じ段差の付いた道路、信号機の停った交差点等が随所に有りそれらを避けながら帰社したのが通常であれば30分程度の所を約3時間費やし無事に帰社することが出来ました。この移動間に未曾有の大津波が沿岸部を襲っていたのです。非常用発電機による電源でテレビを見ていて太平洋を南北に一直線になって襲ってくる津波の凄まじさをまるで映画の1シーンを見ているようで現実のものとは思えず只呆然と見ているだけでした。流される家々、漂う車、逃げ惑う人々、間断なく発生する余震、等自然の脅威を肌で感じたのがつい先日のように鮮明に思い出されます。
さて、この大震災を受けてその教訓等について各業界で色々と取上げられており危機管理も高まっていますが先ず私達に出来る事は、何はともあれ自分の命は自分で守る事に尽きるだろうと思います。震災を期に言われる「津波てんでんこ」・「命てんでんこ」です。その意味として、津波が襲来した時は、親子であっても人のことは構わず自分の命を大切にしてそれぞれてんでんばらばらになって高台へ逃げること。少し非情と思われますが、自分が生きてこそ、その後の人命救助、復旧・復興に活かす事が出来るからです。次に、家族・同僚等の安否確認そして地域住民との互助の絆、生き延びて自分に出来る事は何か?を常に考え実践する事の重要性を認識した東日本大震災でした。
株式会社J.M.S 南相馬事務所長 青柳 政丸