平成に入りT-2ブルーの退役が迫って来た頃、その後継機に関する検討が始まり、機種については国産のT-4中等練習機に決定されました。
今回はT-2からT-4への移行についてまとめてみました。
T-2からT-4への移行

小野氏(東松島在住)提供
平成4年(1992年)には、T-4ブルーインパルスの塗装が一般公募され、作家・北杜夫さんの甥にあたる精神科医の斎藤章二さんの案が採用されました。
また、21飛行隊の中にT-2ブルーの経験者であった田中氏、塩澤氏が中核となり「T-4準備班」が設置され、T-4を使用したブルーインパルスの準備が少しずつ進んできました。
大きな変更点としては2つあり、
①展示飛行(広報)を任務とする独立した飛行隊とする
②パイロットの勤務期間を3年ローテーションとする
というものでした。
独立した飛行隊にする事で、パイロットは学生教育と兼ねる事なく展示飛行と訓練に集中する事が出来るようになりました。また展示飛行が終わり基地に帰った後には代休を取りやすい勤務形態になりました。
T-2ブルーインパルス時代はパイロットの勤務期間について、昭和57年浜松基地航空祭における事故の教訓を踏まえて、「編隊長」と「単独機」操縦者は2~4番機の「僚機を経験してから」という規定ができていました。このため操縦者の在籍年数が長くなり、長期勤務者は10年を超える者まで出てきてブルーインパルスを終えた後、戦闘機の部隊に帰る事が出来なくなってしまいました。
これを解消するため、T-4ではパイロットの勤務期間を3年として、1年目は前任者から演技を教わり、訓練していきます。展示飛行の時には、ナレーションを担当したり、後席に搭乗して見取り稽古を行います。
2年目は自分のポジションで展示飛行を行います。
3年目は展示飛行を行いながら、担当ポジションの教官として後輩メンバーに演技を教育します。
ブルーインパルスのパイロットは全国の戦闘機部隊から選ばれた精鋭揃いであり、日々厳しいトレーニングを積んで、安全で華麗なテクニックを磨いています。
飛行機の特性と新課目の研究
「T-4準備班」では展示飛行課目に関する様々な研究が行われました。もちろんT-2のメンバーも協力をしていきました。T-2に比べると機動性に優れ余剰推力も大きく展示飛行に適したT-4でしたが、問題となる事項もありました。
その一つがラダーリミッターです。ラダーとは方向舵の事で、T-4は舵面の大きさからヒンジ部にかかる力を押さえる為に一定速度を超えると舵角制限がかかるという事です。
実際に4番機(後尾機)位置でロール機動を行う場合、編隊長との相対位置を保持するためには、僅かにバンク角を変えた状態で操作しなければ基本隊形が保持出来ませんでした。また速度によっては、機動中にラダーリミッターが作動したり、解除されたりが繰り返す状態になってしまいました。これを解決するためにブルーインパルス仕様のT-4はラダーリミッターの改修が行われました。
「T-4準備班」を中心として研究と準備が重ねられ、平成7年(1995年)に百里基地で行われた航空訓練展示ではT-2と共に観客の前で研究飛行として展示飛行が行われました。
YouTube:航空自衛隊:「平成7年度航空訓練展示」
※動画の1分10秒付近から出て来る女性3名がT-2ブルーのデザインをした女子高校生(当時)4名のうちの3名です。
まとめ
・三代目ブルーインパルスはT-4国産中等練習機
・機体塗装のデザインは一般公募であり北杜夫氏の甥である斎藤章二氏の案が採用された
・T-4への移行と同時に「展示飛行(広報)」を任務とする独立した飛行隊となった
・パイロットは長期勤務を止めて3年ローテーションとなった
・航空機の飛行特性に関して必要な改修が加えられた
参考サイト
◆YouTube:「平成7年度航空訓練展示」
◆防仁学「蒼い衝撃「ブルーインパルス」 ブルーインパルス物語その① F-86F」
◆防仁学「蒼い衝撃「ブルーインパルス」 ブルーインパルス物語その② 国産超音速練習機T-2」