平成7年(1995年)12月8日に「訓練飛行」という位置付けではありますが松島基地で一般公開された飛行場訓練を最後にT-2による戦技研究飛行は終了しました。
12月22日をもってF-86Fから続いてきた戦技研究班は解散となり、所属パイロットは学生教育を担当する飛行班の所属となりました。同じ日、第4航空団飛行群の中に新しく第11飛行隊が編成され、ブルーインパルスは正式にT-2からT-4にバトンタッチしました。
現在はこのT-4中等練習機で展示飛行を続けております。今回はT-4ブルーインパルスの展示飛行についてまとめてみました。
三代目はT-4、展示飛行を任務とした飛行隊
創造への挑戦

4シップ・イナバーティッド小野氏提供
三代目T-4ブルーインパルスはT-2の基本課目を受け継ぎながらも初代飛行隊長である田中光信氏が「創造への挑戦」を掲げて、新たな展示飛行課目を生み出してきました。
T-2で初めて展示された「ビッグハート」も単に「ハート」を描くばかりでなく、描いたハートの中を天使の矢が射貫く「キューピット」という課目に進化しました。
1982年浜松基地航空祭の展示飛行中にT-2で事故の起こった課目「下向き空中開花」は、一見似たように見えるけれど、安全を考慮した形に変化して「レインフォール」という課目に生まれ変わりました。
T-4は翼面荷重が少なく、余剰推力も大きく機動性に優れているため観客の目の前で行う展示飛行に最適な航空機であります。
但し、前回に述べたようなラダーリミッターの問題以外に縦方向の安定性にも問題がありました。
T-4開発後の初期段階に現れた「不意のモーメント」と言われる縦方向の不意に起こる揺れは空力的な改修で是正されたものの、縦横比の関係からどうしても縦方向の不安定さは残り、展示飛行では問題無くても、展示飛行を実施する基地への進出・帰投における飛行間、T-2に比べると高度維持に神経を使わなければなりません。
展示飛行は日本だけでなくアメリカでも

スタークロス:小野氏提供
T-4ブルーは1996年から正式に展示飛行を行うなか、翌1997年には米空軍創設50周年を記念した「ゴールデンエアタトゥー」に招待を受け、初めて国外における展示飛行を実施しました。
この時に実施した課目「スター&クロス」はアメリカを象徴する「星」を描いたもので、観客から絶賛されました。
航続距離も長くなく、空中給油機能を装備していないT-4をアメリカに運ぶために様々な検討が行われました。
最終的には、木更津から民間の輸送船でアメリカ・サンディエゴまで運んで行きました。
船には、飛行機を管理するために整備幹部が好物のカップラーメンを持って乗り込んで行きました。
当時普及し始めたインターネットも現在のように一般的ではなかったため、渡米する担当者にパソコンとデジカメを持たせ、メールの送信と添付要領だけを教えて渡米させました。
現地から送らせた写真と記事は航空幕僚監部の広報室を通じてリアルタイムでメディアに配信しました。
アメリカから帰った後は、航空自衛隊基地の航空祭や各地のイベントで展示飛行を行ってきました。
大きなイベントとしては、1998年に「第18回長野オリンピック冬季競技大会の開会式」
2004年「2002 FIFAワールドカップの開会式」で展示飛行を実施しました。
皆さんの記憶に新しいところでは、国立競技場建て替えのため2014年久し振りに東京都心上空を飛行しています。
部隊任務として「広報」が正式任務となったブルーインパルスは、皆さまの目に留まる機会が多くなったと思います。
まとめ
・平成7年(1995年)12月にブルーインパルスは独立した部隊、第11飛行隊となった
・第11飛行隊は、正式に展示飛行の任務が与えられた
・「創造への挑戦」をテーマに新しい展示飛行課目を生み出した
・1997年には、初めてアメリカで展示飛行を行った
参考サイト
◆防仁学「蒼い衝撃「ブルーインパルス」 ブルーインパルス物語その① F-86F」
◆防仁学「蒼い衝撃「ブルーインパルス」 ブルーインパルス物語その② 国産超音速練習機T-2」
◆防仁学「蒼い衝撃「ブルーインパルス」 ブルーインパルス物語その③ T-2からT-4へ」