前回は冷戦の縮小とフォークランド紛争による影響を説明しました。(防衛白書とは?(9)冷戦の縮小とフォークランド紛争の教訓)
今回は昭和59年に発刊された第10回目の防衛白書に関して紹介いたします。
自衛隊の部外協力活動
災害派遣などの取り組み

バートル捜索救難機 KPG_Payless / Shutterstock.com
自衛隊は防衛に関する任務のほか、その組織、装備、能力をいかして災害派遣や各種の部外協力活動を行っていて、国民生活や地域社会の安定に広く貢献しています。
これらの活動は、自衛隊と国民とが接する場となり、国民の自衛隊に対する理解を深め、信頼感を高める一助となっています。
この年の防衛白書で触れられていますが、昭和58年は大規模な災害が続き、自衛隊は5月の日本海中部地震に延べ約1,400人、7月の山陰地方の集中豪雨に延べ約10,500人、10月の三宅島噴火に延べ約1,900人及び車両など、陸海空自衛隊の装備品を活用して災害派遣を実施しました。
大韓航空機撃墜事件
民間航空機の撃墜
昭和58年9月1日、ニューヨークからソウルに向かっていた大韓航空の旅客機が、領空を侵犯したとしてソ連の戦闘機に撃墜された大韓航空機撃墜事件がありました。
航路を逸脱したとはいえ、戦闘機が民間の航空機を打ち落とすという前代未聞の出来事であり、死亡した269名の中に日本人28名が含まれていました。
当初ソ連は撃墜の事実を認めませんでしたが、防衛庁(当時)が大韓航空機のレーダー航跡やソ連機パイロットの交信記録を公表することにより、9月9日に至ってようやく撃墜の事実を認めました。
情報業務については、その性格から通常、活動内容は公表されませんが、きわめて異例の措置として公表されました。
なお、この事件に際して防衛庁は、艦艇延べ5隻、航空機延べ90機により大韓航空機捜索のため災害派遣を実施しました。
武器輸出三原則における米国との相互技術交流
制限されていた武器輸出の一部が解禁へ

90式戦車 YMZK-Photo / Shutterstock.com
日本は、武器輸出三原則(昭和42年佐藤総理大臣表明)に基づき、共産国等向けの武器輸出は禁止し、その他の地域については武器輸出を慎むことが方針とされていました。
武器とは、直接人を殺傷するものと考えられますが、武器製造関連設備や技術も含まれていました。
昭和58年、米国から日米間の防衛分野における技術の相互交流の要請があり、その一環として対米武器技術の供与の途が開かれ、武器輸出三原則が一部解除されることになりました。
これは、防衛分野における米国と技術の相互交流を図ることが、日米安全保障体制の効果的運用を確保するうえで重要なものとして認められたものです。
武器輸出三原則が、防衛装備品の海外移転を可能にする防衛装備移転三原則に変わるのは、30年後の2014年になってからです。
まとめ
◆昭和58年は災害派遣を多く行った年であった。
◆大韓航空機撃墜事件では防衛庁(当時)の情報が真相解明に重要な役割を果たした。
◆昭和58年に武器輸出三原則の一部が解除され、対米技術交流が解禁された。
参考サイト
防衛省・自衛隊ホームページ
◆防衛白書とは?(1)防衛白書の歴史
◆防衛白書とは?(2)作成の方針
◆防衛白書とは?(3)防衛白書と防衛大綱
◆防衛白書とは?(4)防衛力強化の取り組み
◆防衛白書とは?(5)シビリアン・コントロール
◆防衛白書とは?(6)新階級「曹長」と予備自衛官
◆防衛白書とは?(7)日米協力と機密情報保護
◆防衛白書とは?(8)防衛予算の金額と防衛記念章の規定
◆防衛白書とは?(9)冷戦の縮小とフォークランド紛争の教訓