1995年1月17日の早朝5時46分に阪神淡路大震災が起こりました。
しかし当時は、自衛隊の災害派遣といった国や自治体が行う災害に対する取り組みは、人命救助に関する規則については立ち遅れている状況でした。
この阪神淡路大震災の教訓から、様々な規則が見直され整備されてきました。
2000年代に入り、新潟中越沖地震に東日本大震災そして熊本地震とマグニチュード7クラスの大地震が立て続けに起こっています。特に東日本大震災では15,467名という多くの人命が失われたものの、法的整備や自衛隊等の速やかな災害派遣によって多くの人命が助けられた事も事実です。
阪神淡路大震災は被災した時に生存する為にどの様な教訓を残したのか、その詳細を調べてみました。
犠牲者の多くは圧死
家屋の倒壊被害と地震
東日本大震災では亡くなられた15,467名中の92.4%が津波に巻き込まれた結果溺死された方ですが、阪神淡路大震災では6,434名中83.3%の方が建物の倒壊に伴う圧死でした。
しかも、犠牲者全体の90%以上は震災発生日の午前6時が死亡推定時刻とされており、午前5時46分に発生した阪神淡路大震災ではほとんどが即死だったと考えられています。
被害が大きくなった理由としては、1981年に前年の宮城県沖地震の教訓から改正された建築基準法(新耐震基準とも)で建てられる以前の古い建物が多くあり、そこには年配者やお金に余裕のない学生が多く暮らしていた事があります。
その為、他の震災よりも20代の若者が多く亡くなっている事も特徴です。
特に、木造建築では建物がバラバラになって倒壊してしまい、生存空間と呼ばれるがれきに人が入れるくらいの隙間が無かった為、生存率に大きく響いていました。
早朝に地震が起きた事もあり、寝ている人が逃げる間もなくがれきに潰されてしまい被害が大きくなったと考えられます。
迅速な救出の大切さ
被災から生存までの分かれ目
阪神淡路大震災では、自衛隊への災害派遣要請の遅れや、交通渋滞による警察・消防といった救助到着が遅れた事が指摘されています。
神戸消防局と自衛隊による救助活動による被災者の生存率は、初日こそ75%でしたが、三日目には15%まで落ち込んでしまいました。
これは被災者が助かるまでの時間的目安は「72時間」とされる理由の一つで、がれきの中に取り残された人が飲食せずに生き延びられる限界と言われています。
阪神淡路大震災では、がれきの中に取り残されたまま亡くなられた方も多く、更に火災が発生により12.8%の人が焼死しており、救助が間に合っていれば助けられたと言われています。
自衛隊の災害派遣
自衛隊は非常に大きな力を持っておりますが、その力を暴走させないために様々な形で規制されております。
このため、当時は自主的に行動する事は条文上定められておりましたが、事実上は行動出来ない様に縛りをかけられておりました。
この様な状況下でも自衛隊の各級指揮官は事後の処分を覚悟の上、独自の判断で隊員を派遣した者や、訓練名目で部隊を動かす者がおりました。
この震災を契機に自衛隊法等が見直されて、自主派遣の縛りが緩められると共に、市町村等、自治体の長も直接派遣を要請する事が出来るようになりました。
阪神淡路大震災は大都市で発生した、震災として多くの教訓を残してくれた災害です。
その教訓を忘れる事なく、これから起こると言われる首都直下や東海・東南海トラフ沖地震といった大震災に備えていきましょう。
まとめ
・阪神淡路大震災では多くの方ががれきに埋まって圧死した
・被災してから救助されるまでの目安となる時間は「72時間」である