2016年8月に日本へ上陸した台風10号は中心気圧945ヘクトパスカル、最大瞬間風速が60mに達していました。
この台風10号上陸前後の報道で「伊勢湾台風並みの強さ」といった表現を耳にしませんでしたでしょうか?
かつて9月に日本に上陸し、戦後最大の被害をもたらした「伊勢湾台風」がどのような台風だったのか詳しく調べてみました。
伊勢湾台風とは
戦後最も大きな被害を出した台風
1959年9月26日、国際名称で「ヴェラ」と名付けられた台風15号が和歌山県潮岬(しおのみさき)に上陸し、翌9月27日に北海道東部で温帯低気圧となり10月2日に消滅するまでに全国で大きな被害を及ぼしました。
この台風は中部地方と近畿地方に挟まれている伊勢湾で高潮被害を起こした事から、9月30日に「伊勢湾台風」と名付けられました。
「伊勢湾台風」は「室戸台風」「枕崎台風」という被害者を3千人以上だした台風と並んで「昭和3大台風」と呼ばれています。
伊勢湾台風が上陸する直前の26日9時には台風の規模が中心気圧920ヘクトパスカル・最大風速は毎秒60mという強大な力をもっていました。
暴風雨圏という最大風速毎秒20m以上の嵐が吹き荒れる雲の範囲が半径300kmを超えていました。
この半径300kmというのは東京を中心とするとだいたい仙台・新潟・金沢・名古屋・津までに達する広大な範囲です。
伊勢湾台風の特徴としては移動速度が速かった事もあげられます。
和歌山県に上陸したあと秋田県側の日本海上へ抜けるまでに時速70kmという非常に速いスピードで移動しています。
通常、上陸後した台風の移動スピードは30~60kmです。
伊勢湾台風のもたらした被害
死者・行方不明者合わせて5千人超
伊勢湾台風は激しい風による建物の破壊や電柱や樹木の倒壊を引き起こし、上陸した26日だけで650mmもの雨が降り注ぎ、土石流や洪水を引き起こしました。
流された橋の数は4,160か所にも及び、堤防の決壊箇所は5,760か所もあったのです。
岐阜県の養老町は町全体が水没するという被害が出ています。
しかし、伊勢湾台風が最も多くの被害を出したのは「高潮被害」です。
伊勢湾に面する和歌山県南部から三重県・愛知県にかけて高潮による浸水被害が発生し、特に名古屋市の南部は1ヶ月近く海水が引かないといった状況でした。
伊勢湾台風の犠牲者は死者4,697名、負傷者38,921名、行方不明者401名で戦後の台風被害としては最も犠牲者が多いのです。
亡くなった方のうち4,562人もの方が三重県と愛知県に集中しました。
台風により被害を受けた被災者は全国で約153万人にものぼりました。
伊勢湾台風では在日米軍と自衛隊による災害派遣が行われ、8千人以上の自衛官が派遣されています。
伊勢湾台風の遺産
災害対策の重要性が分かり国の制度を変えさせた
伊勢湾台風は米軍による気象観測のデータもあり、上陸前から進路が予想され災害対策を行う余裕があるはずでした。
しかし、名古屋地方気象台で最大2mと見積もっていたところに3m以上の高潮が押し寄せたという事が被害を大きくした一つの原因でもあります。
また、最も被害を拡大した原因として考えられているのは、行政による「防災対策」がしっかり出来ていなかった点です。
三重県三重郡楠町(現在は四日市市)のように防災意識の高かった地域では、台風で被害が出始める前に避難を完了させていたために犠牲者を1人も出しませんでした。
この高潮では、名古屋港に積載されていた木材が高潮に乗って流出したことで甚大な被害が出てしまいました。
1本が重さ7t以上にもなるラワン材という木材が約20万tも集積されており、これが高潮で流される事で住宅を破壊し人を押し潰しました。
もし災害に備えて木材を高台へ運ぶといった対策を行っていれば被害を抑えられた可能性が指摘されています。
これを受けて政府は災害に対する法令整備をする必要性を感じました。
1961年1月に災害時の対応をまとめて自治体及び国に実施するように定めた「災害対策基本法」が交付されました。
この法律が現在も災害対策の要となっています。
伊勢湾台風の教訓が今の災害対策に活かされているのです。
まとめ
- 伊勢湾台風は戦後最大の犠牲者を出した台風だった
- 伊勢湾台風当時の防災対策は十分ではなかった
- 伊勢湾台風の被害・教訓が「災害対策基本法」を作り、今でも防災対策に活かされている