この連載「自衛隊員の心得」では「NPO法人JPSSO」協力のもと、自衛隊OBに自衛官時代の思い出や現在の活動についてのほか、自衛隊での経験が退職後にどんなシーンで役立っているかなどを紹介していただきます。
今回は海上自衛隊OB・奥本秀之さんにお話をうかがいました。
自衛官時代に得た経験すべてが今の仕事に役立っています
舞鶴市上下水道部お客様サービス課・奥本秀之さん
艦乗りから地連勤務へ
陸幕長表彰で苦労も報われる
衛生的で快適な生活を確保し、川や海などの水質を保全するため、舞鶴市の水洗化推進を図る現在の業務に就いて約2年。
「外の空気を吸いながら舞鶴市民のみなさんと接することのできるこの仕事は、デスクワークよりも自分に向いています」と、奥本さんは第2の人生を満喫しています。
1980年に、任期制隊員の海士ではなく、将来は海曹になるための制度である第5期一般海曹候補学生(2006年に制度終了)として入隊。
練習艦「かとり」の乗員として、幹部候補生学校を卒業したばかりの3等海尉と東南アジア・オセアニア、北米・中南米方面への遠洋練習航海に出た以外は、30代前半まで舞鶴の護衛艦に乗っていました。
いわゆる「艦乗り」として磨きがかかった時期、地方連絡部(現在の地方協力本部)の舞鶴募集事務所に転属となり、自衛官募集の業務に6年間関わりました。
「希望していた勤務ではありませんでしたが、結果としてこれが得難い貴重な経験になりました。たとえば今、一般のお宅を訪問する機会も多いのですが、それがとてつもなくストレスになる人がいる一方、私は抵抗なくインターホンを押すことができます。これは地連時代にさんざん鍛えられたからです」
地連では広報官として一般家庭を訪問する機会が非常に多かったそうです。
「なんでうちの子を自衛隊に入れなくちゃいけないの」ときつい言葉を投げられることもあり、最初の頃はなかなかインターホンを押せず、玄関前で30分近く逡巡したこともあったそうです。
その経験があるからこそ、今はストレスもためらいもなく訪問できるといいます。
また、地連時代に舞鶴市内の地理を把握したおかげで、現在の仕事に就いてから地名や地図を覚えるという苦労もせずに済みました。
「苦労が多かった地連勤務でしたが、陸幕長表彰までいただいたので苦労が報われました。」
激務の舞鶴地方総監部時代
乗り越えたからこそ今がある
2004年からは幹部自衛官として舞鶴地方総監部に勤務。
退職予定自衛官の再就職をサポートする援護業務を担当している時は、さまざまな企業の代表や採用担当者と接したことで、自衛隊だけでなく外の世界との関わりを持ち、視野が広がりました。
一方、総務課広報係勤務時の2008年には、舞鶴に配備されている第3護衛群のイージス艦「あたご」と漁船との衝突事故が発生。
心身ともに消耗した激動の2年間だったそうです。
「幹部自衛官になってからは厳しい配置が多く苦労もしましたが、だからこそ休日に呼び出しもない、緊急の電話もかかってこない今の生活のありがたさがよくわかります。それにいくら苦労したといっても、自衛隊に入ってよかったという気持ちに変わりはありません。艦艇勤務で日本国内はもちろん海外へも行くこともできましたし、地連や援護業務で民間の方と多く接する機会を得たことで、現在の仕事にもスムーズになじむことができました」
公私ともに充実した日々
仕事はスピード対応がモットー
自衛官時代にはなかなか作れなかった家族との時間も、今は大切にしています。
家族旅行もできるようになり、11歳の一人娘の成長も楽しみです。
休日には一般公開している初代舞鶴鎮守府司令長官の東郷平八郎が過ごした官邸、東郷邸を案内するボランティアも行っています。
仕事の際に心がけているのはスピード対応です。
「苦情や要望、ご意見に対して、自分で処理できることについてはすぐさま対処し、できないものについては持ち帰って上司に報告・相談するなど、迅速な対応が大切だと思っています。これも自衛隊で学び得たことですね」
最後に、若い隊員へ応援メッセージを。
「若い人は活発で元気、優秀な隊員が多いと感じています。しかし中には思い悩むことがあったり、厳しい状況に置かれていたりといった人もいるかもしれません。それでも決して腐らず、1日1日を精一杯過ごしてください。明けない夜はありません、必ず朝は来ます。頑張ってください!」
(文:渡邉 陽子/取材協力:NPO法人JPSSO)