昨日、2016年8月15日で第二次世界大戦が終わってから71年が経過しました。
この戦争で亡くなった日本人は約310万人とされています。
しかし戦時中にも自然災害が発生し、亡くなられた方が大勢いる事をご存じでしょうか?
台風や洪水、連続した大地震などによって6,000人以上の方々が次々と犠牲になっています。
第二次世界大戦中にあった、戦時中の自然災害とその対応の問題点について調べてみました。
戦中に起こった台風と水害
報道管制により被害が拡大
第二次世界大戦の最中、日本は民間向けの天気予報を制限し、具体的な報道を行わない様にしていました。
理由は、天気予報で得られる情報は軍事作戦を行う為にも重要な情報だったからです。
例えば雨が降るかどうかという予報だけでも戦闘機や爆撃機が飛ばせるかどうかに繋がる重要な情報でした。
その為に1942年8月27日に上陸した台風16号・周防灘台風では十分な注意喚起が行われず、山口県を中心に約1,158名もの死者行方不明者が出る事態となりました。
台風により起こった高潮は関門海峡で4.6メートルもの高さを記録し、沿岸部の家屋が海水に飲み込まれて大きな被害を出しました。
更に1943年9月18日から21日にかけて台風26号と秋雨前線により連日300~500ミリもの降水量を記録した集中豪雨が降り、島根県を中心に河川の洪水が発生ししました。
このとき、島根県だけで448名もの犠牲者が出ました。
大分県や宮崎県も最大900ミリに届く降水量がたった一日で降った為に、河川の氾濫や土砂崩れによる犠牲者を出しました。
この災害での犠牲者は全体で970名に及びました。
戦時中の為に報道管制があったことに加え、山地の木々を無計画に伐採した事や河川の護岸工事が充分に出来ていなかった事が被害の拡大に繋がったとされています。
さらにこの台風の8日前に発生した「鳥取地震」の影響で各地の地盤が緩んでいたことも大きな被害が出た原因の一つでした。
次は戦中に発生した大きな地震について詳しくお伝えします。
戦中に発生した3つの大地震
いずれも1,000人以上の犠牲者
「鳥取地震」は1943年9月10日に発生したマグニチュード7クラスの地震で、関東大震災以来最大の地震となりました。
この地震の犠牲者は1,083名に及びますが、その約65%・702名が女性でした。
戦時中で男性の殆どが外地へ出征していたために、犠牲者に女性の割合が増えました。
鳥取地震が発生した当時、戦時中の為に市民には敵の攻撃を想定した「防災訓練」が徹底されていました。
そのため鳥取地震の20年前に起こった関東大震災の際には発生してしまった「略奪」や「デマの拡散」は起きなかったとされています。
訓練されていたバケツリレーなどが迅速に実施され、地震が夕食の準備時間の発生だったため市内16か所で火の手が上がったものの、被害が大きくなる前に消火出来たそうです。
ただ戦時中の情報統制の為にあまり詳細な記録が残されておらず、鳥取県震災小史という冊子などわずかな資料が残っているだけですが、この地震では各地から援助が届き救援活動が行われたとされています。
しかし戦局が悪化するにつれて、地震が発生した時の被害も悪化してしまいました。
翌年1944年12月7日には紀伊半島沖でマグニチュード8クラスという「昭和東南海地震」が発生しました。
これは、現在ニュースでさかんに報道されている「南海トラフ沖地震」と同じ系列の地震です。
江戸時代の安政東海地震という大地震から90年後の年に当たり、「南海トラフ沖地震」は100~150年の周期で起こっている地震と言われています。
死者行方不明者は1,223名で、三重県・静岡県・長野県で震度6以上の地震を記録しており、強い揺れと共に最大で高さ7メートルにも届く津波が襲い掛かり被害を大きくしています。
これほど大きな地震であったにもかかわらず、地震に関する記録はほとんど残っていません。
というのも、翌8日が真珠湾攻撃から三周年だった事や悪化する戦況から国民の関心を背けたい日本軍により地震の情報は機密とされたためです。
震災に対する救援活動も十分に行われませんでした。
しかし米軍側でも地震は観測されていあたため「ドラゴンキャンペーン作戦」として昭和東南海地震をネタにした宣伝ビラをばらまく心理戦を行うほどでした。
さらに約1カ月後の1945年1月13日にも三重県の三河湾でマグニチュード6.8クラスの「三河地震」が起こります。
これは「昭和東南海地震」に連動して起こった地震と言われ、死者行方不明者は2,306名にものぼりました。
しかし士気を保つため報道管制が敷かれ、正確で詳細な情報は現存していません。
救援活動もほとんど行われませんでした。
戦中の自然災害から学ぶ教訓
有事の最中は公助が期待できないことも
第二次世界大戦中に起こった台風や地震などの自然災害に共通しているのは、日本軍及び政府による情報統制により多くの情報が失われている事です。
戦後、1946年12月21日に再び同じ地域で起こった「昭和南海地震」では1,330名もの犠牲者を出したものの、震源発生地の情報や震災前後の人々の様子が記録として多く残されています。
鳥取地震・昭和東南海地震・三河地震・昭和南海地震を合わせて大戦前後における4大地震と一括りにされることが多いのですが、災害に対する対応は戦中・戦後で全く違うものでした。
戦後に組織された自衛隊は災害発生時にできるだけ多くの命を救うべく災害派遣活動を行っています。
しかし有事の際には国防のために災害派遣活動をすぐに行えない可能性は現代でもあります。
もしも自衛隊がすぐに助けに戻れなかったとしても、自らの命を守れる様に日頃から防災に意識を向けることが必要でしょう。
戦中の教訓を今に生かせるよう、次世代に向けて情報を繋いでいきたいと思います。
まとめ
- 第二次世界大戦の最中にも大きな自然災害は発生していた
- 戦争が進むにつれて自然災害に対する被害や情報を隠す方向に進み、結果犠牲者が多くなった
- 情報の秘匿により被害が拡大した事は反省点として語り継ぐべき